ゴースト・イン・ザ・シェル




機械と人間の境が曖昧になりつつある近未来、

難民ボートに乗っていたところをテロリストに襲われ
一命をとりとめたものの、全身義体となったミラ。
過去の記憶は彼女の頭から消えていました。
1年後、彼女は公安9課の「少佐」としてテロから街を守っていました。

ロボットの暴走事件を調査していた少佐は
犯人がなぜか自分を追っていること、
事件の背後には自分が生まれた理由が関係していることを知ります。

自分の生い立ちを調べていくうち、
少佐は1年前に娘を亡くしたという女性に言葉をかけられます。
「あなたは私の娘、素子に似ている」



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予告編を見た印象だと押井守監督の「攻殻機動隊」の実写化だと思ったのですが、
こちらはまた別もののようです。

別ものというか、キャラクターや世界観は同じなんだけど
まったく違う視点で作られた作品だなあと感じました。
「攻殻機動隊」を観たときに感じた、
日本のサイバーパンク独特の空気(学がないんでうまく説明できませんが)
とはちょっと違うものを感じました。



はじめ、少佐がイメージより若く、というか幼く見えたんです。
この作品では少佐に「草薙素子」ではなく「ミラ・キリアン」という名前がつけられています。
彼女を作った科学者のオウレイ博士によると
ミラはテロで攻撃された難民ボートに乗っていた生き残りの女性であり
脳以外の損傷が激しかったため体を全て新しく作り出したとのことでした。

ミラには思い出も古い知り合いもなく、孤独を感じていました。

ときどきフラッシュバックする過去の記憶を追ううち、
彼女はかつての自分を知る人々と出会い、
自分が生み出された理由を知ることになります。

この作品のテーマは義体化がもたらすアイデンティティのゆらぎとか、
人間のたましいとか、そういう難しい哲学的なものではなく
「わたしはだれ、どこからきたの」というすごくシンプルなこと
なのではないかと思います。


はじめ、少佐が幼い印象を持ったというのは
彼女が「自分は他人と違う」と感じ始めるティーンエイジャーの
象徴だからじゃないかなあと思いました。



自分の過去を知りながらそれを隠し嘘をついていたオウレイ博士と
彼女に対し怒りを感じる少佐は
我が子を失うことを恐れる母親と束縛に苦しむ娘といった
描き方をされています。

また少佐は「素子」という娘を亡くしたという女性に出会います。
その母親は少佐が、亡くした娘に似ているといいます。

ロボットを操ってテロを起こしていた謎の人物クゼは
自分が彼女と同じ状況にいることを明かします。


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「ゴースト・イン・ザ・シェル」では少佐は「攻殻機動隊」のラストとは
違う決断をします。

あの名ぜりふ「どこへ行こうかしら、ネットは広大だわ」を
スカヨハさんの声で聞けるものだとばっかり思っていたんで
最初はびっくり仰天だったのですが、よく考えたら
この作品にはこのラストが当然だったのだと思いました。



この作品には少佐を大切に思う人々がたくさん登場します。
「ミラ」の母親であるオウレイ博士、
彼女を父親のように心配する荒巻課長、
「素子」の帰りを待ち続ける母親、
彼女のかつての恋人だったクゼ・ヒデオ、
「ミラ」であれ「素子」であれ彼女を愛するバトー、

はじめは自分がだれともつながりがないことに不安を感じていた
少佐ですが、実はたくさんの人が自分を理解し大切に思っていたことを知ります。

彼らの存在が少佐を現実の世界につなぎとめたのだと思います。

短いシーンですが、最後に素子の母親が
嬉しそうに雛人形を飾っている場面がとても印象的でした。


押井守監督版が好きな人にはちょっと物足りない部分も
あるような気がしますが、

大切なのは過去ではなく
今自分が何をするのか、ということだと
メッセージがわかりやすくて
サイバーパンクというジャンルにとらわれず
共感できるシンプルな作品だと思います。

特に繊細にこころのゆれ動く10代の人に観てほしい作品です。















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キングコング 髑髏島の巨神






1944年。
南太平洋のある島に墜落した2機の飛行機。
二人のパイロットは無事島に降り立ちますが
彼らはその島である巨大な生き物を目撃したのでした。



それから約30年後、髑髏島と呼ばれる謎の地に
アメリカからの調査団が降り立ちます。
協力を依頼されたのは、ベトナム戦争帰りの兵士たち。
地層調査のために島を爆撃し始めた彼らの前に
再び巨大生物の影が現れたのでした。


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テレビの宣伝で見ていた感じだと、キングコング映画といっても
ピーター・ジャクソン監督版のような格調高さはなく
エクスプロイテーション映画のような雰囲気を感じていたのですが
というか、正直アクションだけのB級映画かと思っていたんですが

いろいろと深みのある映画だったように思います。





最初はちょっと違和感を感じたんです。

だって調査団の人種や男女比がすごくバランス良くて、
女性キャラクターにはか弱いところが全くなくて
髑髏島の原住民が「野蛮人」ではなく独自の文化を持った
心優しく礼儀正しい人々として描かれているところとか
誰もコングを捕まえて見世物にしようと思わないところとか

原作に少なからずあった差別的な要素がゼロなんです。
もちろんそれが良いとはぜんぜん思わないですけど
歴史の暗い部分を無理やりなかったことにしているような、
なんかみんな仲良しすぎるというかちょっと綺麗事すぎると
感じていたのですが



この映画が描こうとしていたのはそういう表面的なところじゃ
なかったんだとしばらくして気づきました。

パッカードというヘリ部隊の隊長がいるのですが
彼はベトナム戦争で多くの部下を失い、
戦争自体がきっちり決着がつかないまま終わってしまったので
モヤモヤしたものを抱えています。

そんな中髑髏島で彼はまたコングに仲間の命を奪われ深く傷つきます。
(島をいきなり爆撃したのでコングを怒らせて当然のことではありますが)
彼は絶対にコングを倒し仲間の仇を取ると言い張ります。
それはベトナムで失ったものを取り返したいという気持ちの表れでした。

パッカード以外の人々は皆コングが島の守り神であることを理解し
無謀な戦いはやめるように彼を説得するのですが
パッカードは絶対に聞き入れません。
コングを倒すことに異常に執着する彼は狂気的にも見えますが
本心ではコングに勝他なくては失った部下たちが報われないと
必死なのです。


この描写を見て私は「日本のいちばん長い日」を思い出しました。

みんなが戦争をやめようと動き出しているのに
陸軍の青年たちはその動きに逆らうんです。
戦場の悲惨さをいちばん身近に知っているはずの彼らがなぜ、と思ったのですが
やっぱり、あっさり負けを認めてしまっては
これまで失った仲間たちがかわいそうだと考えていたのだそうです。

つらい思いをしたからこそ戦いがやめられない、
というパッカードの描写がとても切なく痛ましかったです。

あと、最後の方で「また会いましょう」が流れるんです。
第二次世界大戦中のヒット曲で、
「博士の異常な愛情」のラストシーンで流れることで有名な歌ですが
「日本のいちばん長い日(リメイク版)」でも流れるんです。
こういうところにもちょっと共通点を感じました。
戦争映画としては「地獄の黙示録」をイメージしているそうなんですが。
最後の「マザファッ…」のせりふにぐっときますね。


人間の話ばかりになってしまいましたがキングコングの迫力もすごかったです。
最初の登場シーンからぶっ飛ばしてるぜって感じです(薄っぺらい感想)。
怪獣映画って怪獣が登場するまで時間かかるのが多いですが
今回はすぐ出てきます。

キングコングって、いつも人間に街に連れ出されて見世物にされる
搾取される自然の象徴みたいなところがあったような気がしますが
今回は人間にそんなことさせない、絶対的な強さを感じさせます。


人間の美女とのロマンスも一切ありません。
とにかく他の怪獣たちと戦いまくる映画です。
美女と野獣の悲恋を求めていた人にはちょっと寂しいですが
余計なことを考えずに楽しく見られる
良い意味での「見せ物」映画なんじゃないかと思います。

原作の「キングコング(1933)」も
もともと密林探検ドキュメンタリーを作っていた監督たちと
もとボクサーだったアニメーターが作った
冒険とアクションが中心の作品だったので
ある意味では原点回帰の作品だったのかもしれません。

原作の制作者で「キングコング」のアイデアを生み出した
メリアン・C・クーパーさんは戦時中パイロットをしていたそうですが
飛行機に乗って見知らぬ土地に行くことが大好きだったそう。
監督を務めたアーネスト・シュードサックさんとも
戦場で出会い意気投合したそうで

「髑髏島の巨神」で敵同士だったアメリカと日本のパイロットたちが
見知らぬ島で出会い、冒険を通して友情が芽生えるというストーリーは
もしかしてこの辺りへのオマージュなのかなあと思います。


原作はもちろん
「食人族」「恐竜100万年」など色々な作品を
思い起こさせるシーンがたくさんあってとても楽しい作品でした。
ワクワクする上にちょっとホロリと泣けます。

これから観に行くという方、
エンドロールになっても絶対に席を立たないでください。

まさかの怪獣が出てきます。














光る眼




都市から離れた小さな村。
住民たちは平和に暮らしていました。

しかしある日突然、村の人々が一斉に失神する事件が起こります。
その後、村じゅうの女性が同時に妊娠。
生まれてきた子供たちは皆銀色の髪に無表情。
仲間内の連携は異様なほどに強い割には
他者に対する思いやりを一切持ちません。
子供たちの光る眼に見つめられた大人たちは
次々と謎の死を遂げました。

村の医師チェフィーは、子供たちに村人たちとの共存を訴えます。
しかし子供たちは説得を受け入れず、
村人たちは一人また一人と死んでいきます。

耐えられなくなった人々は、ついに子供たちを村から追い出そうと
立ち上がりました。
光る眼の子供たちの一人の母親ジルは
息子デイヴィッドには他者の気持ちを思いやる心があると信じ
救出に向かうのですが…


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1960年の映画「未知空間の恐怖/光る眼」のリメイクです。
こちらは大人の子供たちの世代のカウンターカルチャーに対する
恐怖を象徴する作品なんだそうです。

光る眼の子供たちというのは地球人の腹を借りて生まれた宇宙人らしく、
彼らは常に集団で意識を共有しています。
50〜60年代に生まれの人々の中には
ヒッピーになって家族ではなく同じ価値観を持つ仲間同士で
共同体を作って生活することを選ぶ若者も多かったそうです。

子供たちの考えが理解できない大人の世代には
ヒッピーたちはエイリアンみたいに不気味で恐ろしい存在に
思えた、というのがこの映画で描かれているのだそうです。


若者の作り出す新しい文化によって自分たちの価値観が
否定されることへの大人の危機感、というのは
「ボディ・スナッチャー/恐怖の街(1956)」「地球最後の男(1964)」
等でも描かれているので当時の人にとって切実な問題だったのかなと思います。


それでこのリメイク版は1995年の作品です。
60年代の不安を描いた作品がなんでまたリメイクされたのでしょうか。
ここから下はあくまでも私の推測です。


90年代以降に生まれた人は
小さい頃から当たり前にパソコンなり携帯電話なりがあって
親が見ていないところで情報に触れたり誰かと連絡を取り合うことが
割と簡単にできた世代なんじゃないかと思います。

それでネットやSNS上で知り合った仲間同士で
運動や革命やテロを起こして世界を変えてしまうということが
実際に起きているんですよね。
ネットに詳しくない人だったらすごく不気味に感じるんじゃないかと
思います。

映画の中でも子供たちは親の知らないところで意識を共有し
よくわからない超能力で大人を簡単に殺してしまいます。

この映画がどこまで意図しているのかわからないのですが
若者が新しいメディアで新しい文化を作ってしまうことへの
恐怖感みたいなのが予言されているのかも、と思いました。

あと、光る眼の子供達は常に連携しているけど、
お互いの間に思いやりとか愛情といったものは一切ありません。
一人だけ感情を持っている子がいるのですが、
その子に対して他の子は「あんたは出来損ないだ」と冷たいんです。

これって、SNSなんかで「既読」や「いいね!」を付けてくれない友達を
平気でブロックしたり、空気読めない奴は無視、みたいな感じに近くて、
お互いいつも繋がっているはずなのに、なんだか冷たくて
いつも相互監視しているみたいでそれが苦しい、っていうところに
ネットいじめの感覚にちょっと似ているような気もしました。
考えすぎか。




あと、子供たちの暴走を止めようとする大人を演じる俳優の中に
クリストファー・リーヴさんとマーク・ハミルさんがいるんです。
スーパーマンとルーク・スカイウォーカーです。

70〜80年代に優しく頼もしい正義の味方を演じた彼らが
得体の知れない不気味な子供たちにやすやすと考えを読まれてしまう姿は
なんだか見ていてショックな気がしました。
ハミルさん演じる牧師が子供たちの超能力で
自殺に追い込まれてしまう場面があるのですが
「フォースを使ってくれ!フォースを!」って思いました。

リーヴさん演じる医師は最後、子供たちの暴走を止めるべく
自らを犠牲にするのですが、その姿は英雄的なんですが
やっぱりちょっと辛くて痛ましい感じがしました。

キラキラしたかっこいいヒーロー像、というのが
この作品では若い世代に冷たく否定されているように感じます。
不況の時に生まれたからかなあ(適当)。



とはいえ、この作品では最後に子供に理解を示そうとする親と
大人の悲しみに共感する子供が生き残ります。
親子がこの先歩む道の厳しさを予感させる終わり方でしたが
それでも二つの価値観は共存させようと思えばできるんだよ、と
かすかに希望を感じさせる作品だったように思います。


あと、90年代生まれの子供が大人になった今でも
スーパーマンの映画はたくさん作られているし
スター・ウォーズにもやっぱりルークが戻ってくるし
解釈は多少変わってはいますが
若い世代の人々も本当は昔ながらのヒーロー、
好きなんじゃないかと思います。
暗い映画ばかりだと気が滅入りますしね。







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話は変わりますが「おんな城主 直虎」
次郎法師、今週いよいよ城主になるんですね。
私はやっぱり瀬名姫のことが気になってしょうがないです。


このドラマ、毎回サブタイトルがおもしろいなあと思っていたら
ジブリ映画や007、チャン・イーモウ監督の作品なんかを
もじって決めているのだそうです。
そういうところの遊び心も素敵ですね。




エクセス・バゲッジ シュガーな気持ち と 或る夜の出来事








いつも仕事のことばかり気にして、自分に冷たい父親の気持ちを試そうと
誘拐を装って車のトランクに隠れたエミリー。

しかしその車は彼女を乗せたまま、泥棒のヴィンセントに盗まれてしまいます。
車の中にエミリーがいたことに気づいた彼は大慌て。
ひとまず彼女を家まで送ることになりますが
彼は誘拐犯として指名手配されてしまうことに。

エミリーはとんでもなくわがままで自己中心的な性格で手に負えず、
おまけになぜかCIAにまで追われることに。
果たして二人の逃避行の行方は?




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私、どうも恋愛映画が苦手です。

差別や偏見、時代背景、家族の反対、戦争や病気、世界の破滅、沈みゆく豪華客船など
本人たちの力ではどうにもできない大きな力に引き裂かれそうになりながらも、
それでも抗って愛を貫く恋人たちの話だったら
応援したい気持ちになれるんですが

そういう障害は何にもないのに、お互い本当は好きなくせに
「あいつが目の前にいるとなんだかソワソワしちゃって素直になれないの☆」
みたいな高校生の恋愛ものには全力で舌打ちします。

そういう作品が悪いと言っているんじゃないんです。
私自身がそういう体験に恵まれなかったんで、
10代の頃のいろんなねたみそねみを思い出してしまって楽しくないんです。
恋愛映画を作っている人たちのことは大いに尊敬していますよ。本当に。




そんな非リア充の私でさえときめいてしまったのが
「エクセス・バゲッジ シュガーな気持ち」です。

なんでこんなふざけた邦題の映画を見ようと思ったのかというと
ベニチオ・デル・トロさんが主演だからです
(私は三度の飯よりこの人の出ている映画が好き)。

とにかく主演の二人が素敵なんです。
わがまま娘と気の弱い車泥棒、
はじめはいがみ合っていたのにいつのまにか恋に落ちて、
でもやっぱり素直になれなくて…という
私の大嫌いなありがちな展開なんですが、
「周囲の反対も戦争もないんだから、さっさとくっつけばいいのに!」
というへりくつも入る余地のないくらい魅力的なツンデレカップルです。



エミリーちゃんがとにかくかわいいんです。
しかも吹き替えが林原めぐみさんなんです。かわいさ倍増。
デイヴ・マシューズ・バンドにウォールフラワーズです。サントラが。
ファッションや音楽やあらゆる部分に、
90年代の空気感がすごくみずみずしく詰め込まれているんです。





ところで、わがままな金持ち娘に振り回される男の恋愛もの、
という展開にどうも見覚えがあるので考えてみたら
ルーツはこの映画にあるんじゃないかなあと思い至りました。


「或る夜の出来事」

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ルーツ、というよりほとんど同じ内容なんです。

⑴自分を理解してくれない父親に反発した金持ちの娘が家出する。
⑵さえない男が偶然彼女に出会い、家出に付き合うことになる。
 しかしお互いの第一印象は最悪で、ずっといがみ合っている。
⑶娘を追う人々から逃げているうち、ピンチを共に乗り越えた二人は
 親密になる。
⑷結局は娘は父親に連れ戻されてしまうが最終的に彼女は男の元へ向かう。


「或る夜の出来事」は1934年の作品です。
当時のハリウッド映画の表現には厳しい規制がかけられていました。

暴力は映しちゃだめ、飲酒もドラッグもだめ、性描写なんて絶対だめ。
ベッドのある部屋に男女が一緒に映っているだけで
青少年の健全な育成に悪影響だと怒られる時代だったのだそうです。

だから映画の制作者たちは頭をひねり、
過激な描写を一切せずにいかにハラハラドキドキの映画を作るか
試行錯誤を重ねました。

それでノワール映画などは独特のミステリアスで象徴的な表現が
確立されていったそうです。
ラブコメディの分野ではこの作品が規制を逆手にとって
おしゃれで楽しい表現をたくさん生み出しました。

結婚前の男女が一つの部屋で寝ることが許されないのならと
寝室の真ん中に毛布で仕切りを作り(有名な「ジェリコの壁」というやつ)
晴れて結婚したら壁を壊すラストシーンで二人が結ばれたことを表現しています。


50年代に入ると年齢制限を設けることで
暴力や性の表現が解禁されて
「イージー・ライダー」や「俺たちに明日はない」みたいな
アメリカン・ニューシネマと呼ばれる
セックスドラッグバイオレンスな殺伐とした映画も
ハリウッドで作られるようになったそうなのですが
それはともかく、



よくよく考えると、「エクセス・バゲッジ」は「或る夜の出来事」
を90年代に置き換えただけなんですね。

「或る夜の出来事」では最後には娘のエリーが父親の理解と祝福を得て
ピーターと結ばれる、という結末に対して
「エクセス・バゲッジ」ではエミリーは父親から理解されることはありません。
それでも自分の存在を認め理解してくれるヴィンセントと出会ったことで
彼女は父親のことを諦めヴィンセントと生きていくことを選択します。
その辺りは時代や価値観の違いをしっかり考慮した結果だと思います。


私は「或る夜の出来事」を学校の授業で見たのですが
(だから今回の解説は丸ごと授業の受け売り)
同級生の女の子たちが「やばいこの映画!超萌える!」
と大興奮だったので、やっぱり良い作品は時代も国も越えて
観客の心を動かすものなんだなあと思いました。
過激なものに慣れた世代だったら、こういうクレバーな表現は
かえって新鮮に見えるかもしれないですし。


だから「或る夜の出来事」のDNAを受け継ぐ「エクセス・バゲッジ」も
暴力や性の表現が自由にできる90年代に作られながら
過激な表現がほとんどなくても当然やっぱりおもしろいわけです。

最初のシーンでは孤独な少女エミリーは一人で車のトランクに入るのですが
ラストシーンでは彼女はヴィンセントとキスしながら楽しそうに
二人で車のトランクに入っていくわけです。
そのままヴィンセントが内側から器用に足でトランクを閉めて映画はおしまい。
エミリーが父親から独立し、孤独から解放されたことが
この場面で幸せいっぱいに表現されているんです。



というわけで、
あんまり知られていない映画ですが
「エクセス・バゲッジ シュガーな気持ち」すばらしい作品です。
難しい話は抜きにしても、
ベニチオ・デル・トロさんの出演作品にハズレはなしです。





 

不思議惑星キン・ザ・ザ







平凡な男マシコフは妻に頼まれ買い物に街へ出ます。
すると学生のゲデバンから声をかけられます。
「宇宙人と自称する変な男がいます。話を聞いてあげてくれませんか」
その自称宇宙人は二人に瞬間移動装置を見せました。
そんなことあるわけない、とあきれる二人でしたが、
いつのまにか装置によって別の惑星に飛ばされてしまいます。

途方にくれるマシコフとゲデバン。
そこに不思議な形の宇宙船が降りてきて、
中から現れた宇宙人二人組、ウエフとビーが呼びかけます。
「クー!」


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わけがわからないです。
え?なんでこうなったの?
の、連続のソビエト連邦時代のSF映画です。


宇宙ものSFだから派手なエフェクトやかっこいいアクションが
あるものと思って観たら脱力です。
砂漠の星やボロボロの衣装や機械に
マッドマックスのようなディストピアな雰囲気は感じるのですが
陰惨さや過酷さはなく、みんなのんびりとしています。
とにかく、アメリカや日本のSF映画を見慣れた人が観たら
あまりのゆるさに困惑すること間違いなしです。


見知らぬ星に放り出されたマシコフとゲデバンは
奇妙な宇宙人の二人組と旅をすることになります。
この星ではステテコの色によって階級が分かれており
身分が低い者は鼻に鈴をつけ、
身分の高い者に形式ばった挨拶をしなければなりません。

(この挨拶というのが
足を広げ中腰に立ち、両手を広げて
「すしざんまい!」みたいなポーズで「クー!」と叫ぶのですが
この映画観たら絶対やりたくなります。
ちなみに「クー」という言葉はどんな意味にでも使える万能語)


とにかく何もかもヘンテコでなにこれ〜という感じなのですが
だんだん、このヘンテコさには理由があることがわかってきます。



彼らの旅を邪魔するのは
エツィロップと呼ばれる権力者たち。
いばりちらして、民衆を武力で押さえつけます。

「エツィロップ」という言葉は
ロシア語で「警官」を意味する言葉を逆さまに
したものなのだそうです。
この映画に出てくる理不尽で奇妙な身分制度は
ソ連時代の官僚主義を皮肉ったものだったようです。

また、マシコフたちがたどり着いた「アルファ星」では
若く美しい人々が緑に囲まれて暮らす天国のような星に見えますが
彼らは他の星から来た人々が美しい空気を汚すからといって
ウエフとビーをサボテンに変え排除しようとします。

このあたりの描写にも、
国家や民族をめぐる問題が象徴されているようです。


この映画が「しっかりした」政治批判SF映画だったら
ソ連時代に検閲をくぐり抜け公開されることはなかったかも
しれません。
このゆるい雰囲気は、多くの人にメッセージを伝えるために
選び抜かれた手段だったようです。



あんまり関係ないですが、
私はこの映画を見て、なんとなく雰囲気が
韓国の怪獣映画「グエムル 漢江の怪物」
に似ているような気がしました。

この映画では怪物に娘を殺されたと思い込んだ一家が
遺影の前で泣き崩れる場面があるのですが、
その泣き方が凄まじいんです。
家族全員、床をのたうちまわってわあわあ泣くんです。

初めて見たときは奇妙なシーンに思えたのですが
ここまで大げさではないにしても、
韓国で大きな事件や事故があった時に
激しく泣いたり怒ったりして政府の対応を批判する
被害者の遺族の映像をニュースで見たことがあるんですね。
たぶん、韓国の人にしてみればこのシーンは
ユーモラスだけど、リアリティのある表現なんじゃないかと思います。


また、「シン・ゴジラ」でも
ゴジラが現れた時に自衛隊を出動させるのか、
その場合の憲法解釈はどうすれば良いのかをめぐり
政治家たちが延々と議論するシーンがありました。

私が外国人の観客だったら
「なにをずーっと議論してるんだ?さっさとゴジラをやっつけろよ!」
と不思議に思ったと思います。
でも日本の観客はニュースで同じような映像を見たことがあるから、
この場面があたかも現実であるように感じられます。



同じように当時のソ連の人々も「不思議惑星キン・ザ・ザ」を見て
ああ!わかるわかる!と思ったのじゃないかと思います。
SF映画はあり得ない状況やユーモラスな表現を使って
現実を鋭く描いているものが多くて興味深いです。
しかも、批判するだけじゃなくて
最後には観ている人を勇気付けるような結末のものが
多いのも素敵なところです。


「キン・ザ・ザ」でも、主人公の二人は
どんな状況でもお互いや宇宙人たちを信頼する心を忘れません。
ウエフとビーが逮捕されれば、自分たちが地球に帰るチャンスを
捨ててでも彼らを救出に向かいます。

はじめは理解し合うことのなかった地球人と宇宙人の間に
いつのまにか(ほんとにいつのまに芽生えたのか)友情が芽生え
差別や争いに立ち向かってゆきます。
理不尽で不条理な展開が多い作品ですが、
人々があまり悲観的にならず飄々としているのも
見ていて気持ちが良いです。


私は勉強不足で
当時のソ連がどんな状況だったのか、まだまだ
知らないことだらけではあるのですが
でも力強さや勇気をこの映画から感じました。

そういう熱いメッセージを
暑苦しくならず、ほんとにゆる〜く表現しているところが
この作品のまたすごいところだなあと思います。



この映画のすごさについてもっとたくさんお話ししたいのですが
私の知識ではこれ以上は語れません。
この作品に関して適切な表現があるとすれば
クー!
の一言に尽きます。